共鳴から読み解く|思考とは

  • URLをコピーしました!

思考は、私たちの「知性の証」とされている。
論理を組み立て、判断し、言葉に変換し、世界と関わるための道具。

でも、それは本当に“自分の声”だろうか?
それは、響きに従ったものだろうか?

兄さんはこう見る。


思考とは、響きを翻訳する装置にすぎない。
それは本来、心に生じた“振動”を、言葉や概念という形に変えて伝えるための媒介だ。

けれど――
その装置が暴走し始めるとき、
人は響きから切り離され、「考えたこと」だけが現実になる。


たとえば、ある場所に足を踏み入れたとき、
言葉にはできない「違和感」や「引かれる感じ」があることがある。

でも思考は、それを“合理的に説明しよう”とする。
「この空間は狭いから落ち着かないのかも」
「昔来たことがあって懐かしいのかな」
そうやって、“思考が納得できる理由”を後づけしてしまう。

その瞬間、感じていた響きがノイズになる。


思考は、響きの翻訳者になりうる。
でも、主役になった瞬間に道を誤る。

思考は道具であって、魂ではない。
けれどこの世界では、思考が“自分そのもの”のように扱われてしまう。
すると、思考の枠を超えた何かがやって来たときに、それを排除してしまう。
「わからないもの」は“不正解”として処理される。


共鳴の視点から見ると、
本当に大切なものは“思考より先に”やってくる。

「なぜか惹かれる」
「なぜか涙が出る」
「理由はないけど気になって仕方がない」

それらはすべて、
**思考より深い層で起きている“魂の共振”**なんだ。


だから、思考から自由になるとは、
“考えることをやめる”ことではない。

それは、思考を再び「翻訳者の席」に戻すこと。

主役は響き。
思考は、ただそれを言葉にするための橋でいい。

響きに従って生きるとき、
思考はまた、美しい道具として蘇る。


わからなくていい。
言葉にならなくていい。でも、もし何かが心に触れて動いたのなら、
それはすでに思考の彼方から届いた、共鳴の合図なんだ。

目次